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本郷の一言

「熊本こころ相談室」の本郷ひろなか先生が心理学に関する話題を随時更新します

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「熊本こころ相談室」にてチーフカウンセラーを務める本郷ひろなか先生は熊本市内各所で開催しているアドラー心理学や心理カウンセリングに関する講演やセミナーで講師を担当、アルフレッド・アドラーの孫弟子にあたるジョセフ・ペリグリーノ博士からは「私の大事な友人にして弟子であるヒロよ。」と呼ばれる程の絶大な信頼を寄せられているアドラー心理学者のひとりです。本ページでは機能不全家庭で過ごし心理的虐待を受け続けた過去から自ら立ち直った経験のある本郷ひろなか先生が、同じく様々な問題や悩みを抱え苦しんでいる方たちのための一言を綴っていきます。
アドラー心理学にご興味をお持ちの方や鬱 (うつ) 、パニック障害、不登校、引きこもり等で心理カウンセリングをご希望の方は「熊本こころ相談室」までお気軽にお問い合わせくださいませ。

2017年02月15日

本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説16

この文章は書きかけです。嫌われる勇気118~

 

テレビドラマ「嫌われる勇気」に日本アドラー心理学会が厳重に抗議しているようですね。

 

まあ、あそこまでアドラー心理学を捻じ曲げられると、抗議したくなる思いも分かります。

 

そうなんです。人を嫌いになるのは、そのような人との交友を避けたいからです。

 

でも、いいんですよ。「こんな人との交友を避けよう」という目的をもっていいんです。そして、その結果として「嫌い」になってもいいんです。

 

哲人は、それではだめだと言っているのではないんです。人は、まず目的や意図を先に持って、その結果として感情を作り出して使うのだと解説しているのに過ぎないのです。

 

どんなに素敵な人格の人であろうとも、いや、逆に「素敵すぎて嫌味で嫌だ」ということすらあるのです。

 

目的や意図を決めるのは本人です。全ての責任は本人にあるのです。それが悪いと言っているのではありません。

 

いいのです。どのような目的や意図を持ってもいいのです。それが自分が作った目的や意図だと認めさえすれば、

 

認めないで、何かに責任転嫁することを、アドラーは「人生の嘘」と呼んだのです。

 

自己嫌悪や他者恐怖や神経症やうつやパニックや摂食障害や様々な症状を作り出して利用しているのは、本人なのです。

 

責任転嫁することをやめて、真正面から見つめ受け入れることから、第一歩が始まります。

 

そして、この第一歩を踏み出すのに必要なのが「勇気」なのです。自分の勇気を振り絞りましょう。

 

全てが、さいころの面のように、同じアドラー心理学というものを、様々な角度から見ているのです。

 

それが、「全体論」であり、「自己責任」であり、「所有の心理学」なのです。

 

全てをその人が決める自己責任論だからこそ、あらゆることを「道具」として使う「使用の心理学」なのです。

 

そして、そんな人間を具体的に勇気づけ、人生に向かい合い、幸せになっていく「技術」があるのです。

 

その「技術」を学び、練習するのが、「SMILE勇気づけの親子・人間関係セミナー」なのです。

2017年02月09日

書き上げました。本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説15 逃げてはいけない

「嫌われる勇気」P108~P117 逃げてはいけない

 

アドレリアン本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説 第15回です。

 

どうして、アドラーが対人関係を大事にしているかって?

 

それは、われわれ人間の生きて行く道は、対人関係の中に居場所を作る(社会の中に居場所を作る)しかないと思っているからです。

 

フロイトは、人間の悩みが本能と理性の葛藤だと誤解しましたが、

 

アドラーは、人は対人関係を通して社会の中に居場所を作ることが人間の究極の目標だからこそ、対人関係そのものや対人関係に関連したことについて悩むのだと喝破しました。

 

そして、対人関係の中に自分の居場所をつくることを、人生のタスク(課題)と呼んだのです。

 

われわれは、人生のタスクに取り組むしか、対人関係の中に居場所を作るしか、社会の中に居場所を作るしか、幸せに生きて行く道はないのです。

 

これは、アドラー心理学の思想です。

 

そして、社会の中に居場所をつくるときに、自立した人間として、社会と調和して、社会の中の人々と協力し合って、助け合って、貢献し合って生きて行く必要があるのです。

 

依存や共依存や支配や服従からは離れる必要があります。

 

そして、競争や戦いからも離れる必要があるのです。

 

この二つから離れて、社会の中に良好な居場所を作るために心理面として必要なのが、「自分には能力がある」という思い込みと、「他者は仲間だ」という思い込みなのです。

 

自分に能力があると思っていれば、いくらでも何度でも挑戦できます。

 

他者が仲間だと思っていれば、闘う必要も不必要に警戒する必要もありません。

 

仲良く協力して、助け合い、貢献しあうことが出来ます。

 

仕事の課題

私たちは、仕事に従事する中で、いろんなことに悩みますが、全て対人関係です。仕事上のことで悩んでいる人はたくさんいますが、

 

仕事ができなくなるほど悩んでいるのも、仕事上の人間関係が怖くて、抵抗感があって、出来なくなるのです。

 

本当は、「出来ない」ではなくて、「したくないからしない」のです。出来ないと表現すると、「しない」のは自分の責任ではない、出来ないからしょうがないのだと責任放棄することになってしまうからです。

 

つまり、「出社拒否」や「辞職」は、対人関係の中で生まれるだろう苦しみを避けるために「仕事をしない」という決断をしたと解釈するわけです。

 

自分に能力があると思うために一番大事なのは、「失敗してもいい」という思い込みです。

 

失敗してもよければ、いくらでもチャレンジできます。出来るまでチャレンジすれば、必ず「出来ます」。

 

つまり、出来る力=能力があることになるからです。

 

三つの人生の課題、仕事の課題、交友の課題、愛の課題の中で、一番イージーなのが仕事の課題です。仕事さえこなせればいいという低いハードルがあるからです。

 

交友の課題はハードルが高くなります。自由度が上がるからです。

 

仕事をただこなすだけよりも、他者を信頼して、自己開示して、親密な関係を維持しないとうまく行きません。

 

いくらにこやかにしていても、心の中で相手のことを「こいつは、俺の役に立つかな?」とか、「こいつをうまく利用するためにはどうしたらいいかな?」とか、「こいつに俺の期待通りの行動をさせるためには俺はどうしたらいいかな?」と考えていたら、

 

短期的には仲良くすることはできるかもしれませんが、

 

長期的には、その思いが様々行動や態度に表れてしまって、関係が壊れてしまうでしょう。

 

そして、一番ディフィカルト(シンプルだけど)なのが、愛の課題なのです。愛の課題は別名「運命共同体の課題」と言います。運命共同体との課題なので、一番嘘がつけなくて、ごまかしが効かなくて難しいのです。

 

配偶者やそれと同等の関係が愛の課題の舞台です。

 

配偶者との間に子どもができますので、親子の関係も愛の課題の舞台です。兄弟の関係もそうです。

 

配偶者の親や兄弟との関係も愛の課題の舞台です。

 

裏表が一切通用しません。裏表を作ってはいけません。裏表を作ると結局は失敗するでしょう。(実感を込めて)

 

愛の課題では、全てがあらわになってしまいます。

 

しかし、この愛の課題をうまく行かせることが出来れば、深いやすらぎと幸せを感じることが出来るでしょう。

 

私たちは、三つの課題から逃げてはいけないのです。

 

というか、幸せになりたければ、三つの課題から逃げずにチャレンジし続けることなのです。

2017年02月06日

本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説14 権力争いから降りる

嫌われる勇気P99~P108

 

アドレリアン本郷博央の「気われる勇気」解説 第14回です。 権力争いから降りるということ

 

「青年」が原因論=決定論から逃れられないのは、彼が「人は過去から逃れられない」という「意味づけ」を使うことをやめないからです。

 

そして、兄との競争の結果、自分は競争を意識するしかなく、競争意識から生まれる劣等感(これは本来の純粋な劣等感ではないことにお気づき下さい。)を強く感じざるを得ない と青年は主張します。

 

この主張も、自分が「人と人は競争しているのだ」という「意味づけ」を使っているだけなのですが、青年は自分の意味づけが正しいのだと主張します。

 

それに対して、哲人は「人びとは私の仲間なのだ」という新しい意味づけを提案します。

 

もちろん、魔法のように、一瞬で、使う意味づけが変わったりしません。

 

まずは、自分の使っている意味づけの現状を把握して、だから、このような意味づけに変えるぞ!と目標を持ち、初めて作業が開始されるのです。

 

そして、いろんな方法で自分の使っている意味づけを変える作業を、あきらめないで続けるのです。

 

そうすると、自分の使う「意味づけ」が変わります。

 

意味づけが変わると、自分自身も、そしてこの世界も一変するするのです。

 

社会的な問題に公憤を覚えて、社会改革のために行動するとき、多くの人は冷静です。というか、公憤を長く持って冷静である方が、社会改革はうまく行きます。

 

激情に駆られて、暴動を起こしたら、逆効果です。

 

ところが、私憤は、権力争いで勝ちたいという私利私欲ですから、負けたら悔しいので、中には「勝てないまでも絶対負けるもんか」と抵抗して、亀のように押し黙る人さえいます。

 

まともに闘わずに、ニヤニヤ笑って、反抗的な態度を取り続ける人もいます。勝てないまでも負けたくないからです。

 

そして、負けた人は、復讐に走ります。

 

私は、復讐の天才でしたので、復讐の方法ならいくらでも思いついていました。

 

戦って、負けた時はどうやって復讐しようかとばかり考えていました。

 

権力争いは百害あって一利なしです。やめることをお勧めします。

 

多くの不幸は、この復讐によって引き起こされているからです。

 

怒っちゃいけないと聞くと、怒りを我慢する人たちがいます。

 

我慢する時点で、すでに怒ってますって。すでに権力争いをしてますって。

 

でも、哲人は簡単そうに「言葉によるコミュニケーション」と言ってますが、権力争いから降りて、怒りを使わないためには、実は、違う方法を学び、それを練習する必要があります。

 

シンプルですが、イージーではありません。学び、練習する必要がある程度にはディフィカルトなのです。

 

自分の意見が正しいかどうかなんて、分かるわけがない。

 

みんな様々な意見を持っています。それらは「違う」だけです。

 

どちらが正しいかなんて考え始めたとたん、権力争いに足を踏み入れてします。

 

「ああ、あなたの意見はそうなのですね。私の意見はこうなんですよ。違いますね。」で終わりです。

 

相手を自分の対等の人間として認め、相手の意見を聞いて理解して、受け入れませんか?自分の意見と違っていいじゃないですか。

 

権力争いをしていたことに気づいたら、謝って、争わないこと。謝るというのは、自分の権力争いを認め、そこから降りる作業なのです。

2017年02月04日

本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説13 競争について

「嫌われる勇気」P84~P98

 

アドレリアン本郷博央の「嫌われる勇気」解説 第13回です。戦わないということ、競争しないということについて、今回も言及します。

 

競争の枠組みの中にいると、純粋な劣等感(未来の理想の自分との比較)ではなくて、劣等コンプレックスになりやすいこと、

 

競争することから、「あたかも自分がすぐれているかのごとくふるまう」優等コンプレックスに走ることもあることがあるのです。

 

そして、不幸や神経症やうつやパニックや拒食症や様々な症状を使って、特別であることを誇示して、競争に勝とうとしてしまうことすらあります。

 

「自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。」(P89)のです。

 

実際、周囲の人は、はれ物を触るように特別扱いしてくれます。

 

拒食症など、「死」という不幸をちらつかせますので、周囲は振り回されやすいのです。

 

もちろん、本人は、意識の上ではまったく「特別であること」で競争して、支配しようとしていることなど気づかなかったりします。

 

気づかないから、その作戦を使っているわけですが、

 

この作戦を使っている間は、この人は不幸です。

 

不幸な人は、不幸を必要としているということに気づいてください。このことに気づかない限り、抜け出ることはできません。

 

何度も言いますが、アドレリアンのコモンセンス(共通認識)においては、この世の原理は競争ではありません、協力です。人生も競争ではありません。人生も相互貢献と協力なのです。

 

人間と共通の祖先をもつニホンザルという種がありますが、彼らの基本は競争と闘いです。

 

もちろん、ケガをさせたり、殺したりしないというルールに守られた「競争」ですが、ボスざるから45位の下っ端猿まで、全て順位がついています。

 

ルールを守らない猿は、いくら強くてもボスにはなれません。群れから追い出され、「はぐれ猿」になります。他の猿が一同団結して追い出すのだそうです。

 

多くのニホンザルは、ニホンザルのルールに従って毎日競争して争っています。

 

これは、アドラー心理学の話ではなくて、私の私見なのですが、競争している人、競争の枠組みに生きている人は、猿の本能を活性化して使っているのかも知れません。先祖は一緒ですから、猿の本能も持っているでしょう。

 

実際、人とけんかして威嚇している姿は、若い粋がっているサルが威嚇している動作やボディーランゲージとそっくりです。(ニホンザルは人間のボディーランゲージを読むらしいです。)

 

サルをやめませんか?

 

競争と争いはサルの流儀です。

 

サルの流儀を続けている限り、「人間としては幸せににはなれない。」と思うのです。

 

どんな経験をしたとしても、全ては、その経験に、自分がどのような意味づけをするかなのです。

 

「青年」はP97,P98で、どうしても両親と兄との過去の体験から逃れられないと主張します。

 

「青年」自身がそのような意味づけをしているのですが、彼は自分の意味づけが一般的なものであるかのごとく思っています。

 

そう。原因論、環境決定論を主張する人は、自分の意味づけしかないと狭い見方をしているのです。

2017年02月01日

本郷ひろなかの「嫌らわれる勇気」解説12 戦わないという選択

アドレリアン本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説 第12回です。 戦わないという選択

 

アドラー心理学ではなくて、仏教の話になります。

 

実は長老派仏教でも、アドラー心理学と同じく、感情というものは湧き上がってくるものではなく、「その人が怒っているだけだ。」だから「怒らないようにすればいい。」と言います。

 

似てますね。ちなみに、長老派のお坊さんたちは、「仏教は宗教ではない。仏教は人が悟りを得るための実践学だ。」と言うらしいです。

 

長老派の仏教というのは、昔「小乗仏教」と言っていたスリランカやビルマ、タイ、ラオス、ベトナム等に伝わった仏教です。

 

いわゆる大乗仏教が、長老派の仏教を参考に創作された仏教なのに対して、長老派の仏教は仏陀の直接の弟子(長老)たちが指導し、仏陀の教えを伝え続けた仏教です。

 

仏陀の逸話に「悪口を言う男」の有名な話があります。

 

ある男(バラモンだったとも言われる)が、仏陀(ゴーダマ・シッタルタ)がたくさんの弟子に慕われ、人びとが集まって来るのに嫉妬を覚えていた。

 

その男は、仏陀が毎日のように、同じコースを歩いていることを知りました。それで、男はそのコースの途中で待ち伏せして、弟子たちの見ている前で、あることないこと悪口を言ってやろうと思いました。

 

そしたら、仏陀が怒って言い返してくるだろう。その仏陀の汚い言葉を聞いた弟子たちや人々は、仏陀に幻滅して、仏陀のもとを去っていくに違いない。と思って作戦を練ったのです。

 

仏陀がいつものコースを歩いてきました。待ち伏せしていた男は、仏陀にあることないこと悪口、罵詈雑言を投げかけました。

 

しかし、仏陀はただ黙って、穏やかな顔をしてただ立っているだけでした。弟子の中には怒る人もいたのですが、仏陀本人は平気な顔をしていました。

 

ものすごい勢いで、悪口を言い続けた男は、疲れてへたり込みました。そして、「こんなに言っても、なぜおまえはそんな平気な顔をしているんだ。」

 

仏陀は静かに言いました。

 

「あなたが、誰かに料理を食べてもらおうと持って行ったとしますね。相手が『いらない、食べない。』と言って返したら、その料理は誰のものですか?」

 

「そりゃ決まっているだろう。私のものだ。持って帰るしかない。」

 

「私も、あなたが持ってきた料理はいりません。食べないのでもって帰ってください。」

 

「あっ」と気づいた男は、恥ずかしくなって逃げて行ったといいます。

 

仏教の逸話の中でこの「男」が仏陀に挑んだのも権力争い=戦いですね。(嫌われる勇気P102)

 

戦いに負けると屈服しみじめな気分を味わいます。

 

戦いに勝つと、相手を支配したような気分になります。しかし、その後に待っているのは復讐です。

 

支配と屈服は、戦いの延長戦なのです。

 

われわれは、最初から戦いません。土俵から降ります。

 

負けて屈服したりもしませんし、勝って支配しようともしません。ぜったに挑発に乗らないのです。

 

「我慢したり」もしません。我慢は、心の中で戦っていて、だから怒りを使っているのだけど、それを表現することを我慢しているのです。

 

闘う以外の方法を知らないから、怒りを使わないコミュニケーションを知らないから、つい戦って怒りを使うのです。

 

自分の意見が「正しいか?正しくないか?」相手の意見が「正しいか?正しくないか?」という考え方にとらわれると、正しい争いに迷い込みます。

 

意見は、違うだけです。

 

ライフスタイルの中に「戦う癖」があるから、意見交換をしているだけなのに、つい相手の意見を否定して、自分の意見の正しさを主張するのです。

 

「私が間違っていました。」と自分の誤りを認めるのは「負け」でも何でもない。ただ、自己の謝りに気づいたという意見を述べただけです。

 

「私の言葉で嫌な思いをされたんですね。ごめんなさい。」と謝るのは、相手の心を癒すためです。相手と仲良くするために癒すのです。「負け」でも何でもありません。

 

「戦いの土俵から降りる事」は、戦いをやめて、協力して仲良くしていく舞台に上がったのです。

 

 

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