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本郷の一言

2017年02月01日

本郷ひろなかの「嫌らわれる勇気」解説12 戦わないという選択

アドレリアン本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説 第12回です。 戦わないという選択

 

アドラー心理学ではなくて、仏教の話になります。

 

実は長老派仏教でも、アドラー心理学と同じく、感情というものは湧き上がってくるものではなく、「その人が怒っているだけだ。」だから「怒らないようにすればいい。」と言います。

 

似てますね。ちなみに、長老派のお坊さんたちは、「仏教は宗教ではない。仏教は人が悟りを得るための実践学だ。」と言うらしいです。

 

長老派の仏教というのは、昔「小乗仏教」と言っていたスリランカやビルマ、タイ、ラオス、ベトナム等に伝わった仏教です。

 

いわゆる大乗仏教が、長老派の仏教を参考に創作された仏教なのに対して、長老派の仏教は仏陀の直接の弟子(長老)たちが指導し、仏陀の教えを伝え続けた仏教です。

 

仏陀の逸話に「悪口を言う男」の有名な話があります。

 

ある男(バラモンだったとも言われる)が、仏陀(ゴーダマ・シッタルタ)がたくさんの弟子に慕われ、人びとが集まって来るのに嫉妬を覚えていた。

 

その男は、仏陀が毎日のように、同じコースを歩いていることを知りました。それで、男はそのコースの途中で待ち伏せして、弟子たちの見ている前で、あることないこと悪口を言ってやろうと思いました。

 

そしたら、仏陀が怒って言い返してくるだろう。その仏陀の汚い言葉を聞いた弟子たちや人々は、仏陀に幻滅して、仏陀のもとを去っていくに違いない。と思って作戦を練ったのです。

 

仏陀がいつものコースを歩いてきました。待ち伏せしていた男は、仏陀にあることないこと悪口、罵詈雑言を投げかけました。

 

しかし、仏陀はただ黙って、穏やかな顔をしてただ立っているだけでした。弟子の中には怒る人もいたのですが、仏陀本人は平気な顔をしていました。

 

ものすごい勢いで、悪口を言い続けた男は、疲れてへたり込みました。そして、「こんなに言っても、なぜおまえはそんな平気な顔をしているんだ。」

 

仏陀は静かに言いました。

 

「あなたが、誰かに料理を食べてもらおうと持って行ったとしますね。相手が『いらない、食べない。』と言って返したら、その料理は誰のものですか?」

 

「そりゃ決まっているだろう。私のものだ。持って帰るしかない。」

 

「私も、あなたが持ってきた料理はいりません。食べないのでもって帰ってください。」

 

「あっ」と気づいた男は、恥ずかしくなって逃げて行ったといいます。

 

仏教の逸話の中でこの「男」が仏陀に挑んだのも権力争い=戦いですね。(嫌われる勇気P102)

 

戦いに負けると屈服しみじめな気分を味わいます。

 

戦いに勝つと、相手を支配したような気分になります。しかし、その後に待っているのは復讐です。

 

支配と屈服は、戦いの延長戦なのです。

 

われわれは、最初から戦いません。土俵から降ります。

 

負けて屈服したりもしませんし、勝って支配しようともしません。ぜったに挑発に乗らないのです。

 

「我慢したり」もしません。我慢は、心の中で戦っていて、だから怒りを使っているのだけど、それを表現することを我慢しているのです。

 

闘う以外の方法を知らないから、怒りを使わないコミュニケーションを知らないから、つい戦って怒りを使うのです。

 

自分の意見が「正しいか?正しくないか?」相手の意見が「正しいか?正しくないか?」という考え方にとらわれると、正しい争いに迷い込みます。

 

意見は、違うだけです。

 

ライフスタイルの中に「戦う癖」があるから、意見交換をしているだけなのに、つい相手の意見を否定して、自分の意見の正しさを主張するのです。

 

「私が間違っていました。」と自分の誤りを認めるのは「負け」でも何でもない。ただ、自己の謝りに気づいたという意見を述べただけです。

 

「私の言葉で嫌な思いをされたんですね。ごめんなさい。」と謝るのは、相手の心を癒すためです。相手と仲良くするために癒すのです。「負け」でも何でもありません。

 

「戦いの土俵から降りる事」は、戦いをやめて、協力して仲良くしていく舞台に上がったのです。

 

 

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